『藁の盾』あるいは日本の正義

『藁の盾』という映画をDVDで見た。
珍しく,暗澹というか,不安な気持ちになった。簡単にあらすじを要約すると...
幼女に暴行殺人した容疑者=清丸国秀を福岡から東京まで護送するSPたちと,「容疑者を殺したら10億円」という新聞広告に煽られて彼を殺そうとする,警察官を含む様々な人びととの攻防を描いた映画,という感じだろうか。空間の移動をしながら登場人物の過去や家族のことが明らかになるというのはロード・ムーヴィではよくあるパターンだ。敵と味方が何かを奪いあうというもの,スパイ映画や冒険映画ではよくある図式だ。
既存の映画のパターンを素直になぞっただけの娯楽映画の何が見ていてつらいのか?
1つは,映画に登場する司法(検察)や正義(警察)のプロたちが,容疑者について交わす議論の乱暴さである。彼らはみな揃いも揃って,容疑者が幼女暴行の犯人であることを疑っていない。そればかりではない。容疑者が幼女暴行の犯人である以上,司法,警察関係者は彼を人間として扱う必要はない(たしか「虫けら」という言葉が何度も使われいた気がする)と,執拗に繰り返す始末。さらに,この司法,正義のプロたちは,被害者の家族は加害者に仕返しする権利があることを主張して躊躇わない。
司法と仕返しは根本的に異なるという,私たちの社会を支えている根本的な原則が,この映画ではその原則を支える人たちから真っ向から否定されているのだ。
しかし,この点こそがこの映画を見ていて決定的につらい点なのだが,どうも社会で司法が果たす役割に対するハチャメチャな設定が,この映画の真実らしさを支える決定的な弱点に今の日本ではなりえないことを,製作者サイドがまったく疑っていない点だ。
この映画におけるお金の描かれ方も,見ていていたたまれない。10億円のために,清丸国秀殺しにかかわる人の多くが,看護士,警官,整備士,検察,マスコミ関係者など,私たちの日常の秩序を支えてくれている職業に携わっている。それが当たり前のこととして描かれている。この映画は,社会とお金の関係が決定的に変わったことを上手く示唆している。この点についてはまた明日。