哀しい王様

昨日は『THIS IS IT』を観る。
とても楽しい,そしてちょっと哀しい2時間でした。
この映画,恐らくはアーティストの不慮の死のために,ロンドンでの連続コンサートでの興行収入が見込めなくなった興行主が,あちこちの財政上の穴を埋めるために急遽,編集した映画なのだと思います。コンサートの準備風景がスクリーンに映し出される度に,「この人と資材への投資を,マイケル・ジャクソン亡き今,どうやって回収するのかしら」と何度,思ったことか!
とはいえ,映画を見ていて何度か「俺,今我を忘れてるじゃン」と思えるくらいに楽しかった。
やっぱり若いころに耳に入った音楽(きちんと聞いたことはないにせよ)が流れると,身体が喜んでしまうみたいです。それにあの踊り,どうやって振りを覚えるのかしら...
やはり,彼は世紀末の< KING OF POP>だったのでしょう。
とはいえ,マイケル・ジャクソンの話し振りや周囲が彼に話しかける時の気の使い方を見ていると,ちょっと哀しくなったのも事実。王様も楽じゃない。
英語で大事な話をしたことはないけれど(大切な人に親密な感情を伝えるとか...),やっぱり彼,彼らの「LOVE」という言葉の使い方にはちょっと<病的>なものを感じてしまう。
イヤホンのモニタから流れる音声が聞き取りにくいことをスタッフに伝えるためにどうして,彼は「怒ってるんじゃない,ラヴ」なんて言い方をするのだろう。
クレーン式のステージに登ったマイケル・ジャクソンにどうしてみんな「ラヴ」という言葉を使うのか...
恐らく,彼は自覚していたのだろう,彼の発する言葉が周囲に与える影響力を。
私たちは,普通,自分たちの言葉に力がないのが当たり前の環境で暮らしている。
「愛してる」という言葉を何度呟いても,愛しい人はその言葉のもつ本当の深さ,重さを分かってくれない。「給料上げてくれ」といくら叫んでも「おまえ程度の代わりなら捨てるほどいる」という返事が返ってくるだけ。「母ちゃん飯」と呼んでも,母ちゃんはずっとPTAの友だち(不倫相手じゃないだけまだいいか)と携帯でお話中。
つまり,どんなに言葉を尽くしても,声をからして叫んでも,言葉が通じない。そんな言語世界,に大抵の人は暮らしている。
だが,マイケル・ジャクソンの暮らす言語世界は違う。語ることすなわち行うことなのだ。だって彼の周りには彼の才能を信じる人(映画も,彼のために世界中から集まってきたダンサーの<信仰告白から始まる>),彼のスタートしての価値に全てを賭けた人しかいないのだから。彼の発する些細な一言が絶大な意味を待つ。そして彼はそのことを熟知している。
だからこそ,彼は音楽以外のことが話題になる時には「王」のごとく,病的なまでの迂言法を使う。でも彼はレトリカルな話し方などできないし,できたとしてもそれが通じるミリュー(社会環境)に彼は暮らしていない。だから,彼は家臣にラヴってことばを乱発するのだろう。
スタッフに話しかける時とはまったく対照的に,彼がミュージシャンやダンサーに指示を出したり,議論している姿は自信と威厳に満ちあふれている。この時彼は,王様としてではなくアーチストなのだ。そして,彼が本当に生き生きしていること,この仕事に誇りと愛情をもっていることがひしひしと伝わってくる。これらの場面は,映画の中でも救いの時だ。

音楽とダンスによって彼はポップ・ミュージックのアンドロイドから王様になった。そのことが彼を苦しめた。その中での慰めが音楽だった。
なんともヤルセナイ話ではある。