年を重ねて読む『失われた時...』

最近,分厚いプレイアード版をどこにでも持ち歩いて,暇があれば『失われた時』を舐めるように読んでいる。
もっとも,舐めるようにとは,あくまで読書のスピードのことで私の語学力ではゆっくり何とか構文を辿るのが精一杯。悔しいが私の教養では味読にはほど遠い。
こう書くと優雅に聞こえるかも知れないが,公私ともに八方塞がりで,せめて古典に慰めを求めようとして手に取ったのが,昔友人たちと読んだこの作品。
ようやくコンブレーに入ったばかりなのだが,ずっと昔に日本語で読んだ時と,かなり印象が違う。レオニー叔母さんとフランソワーズの話しに思わず微笑んだり,フランソワーズとママンのやり取りに胸を打たれたり,孫のために熱中症も厭わず誕生日プレゼントの本を自ら選ぶために炎天下,本屋に出かける祖母の姿にホロリとしたり...
主人公に対するママンの態度に,これって今で言うネグレクトではなどと勘ぐったりして読み進めている。
文学を飯の種にすることは適わなかったけれど,文学のお蔭でなんとかサヴァイヴァルしている今日この頃である...