作文における自由

若い人の作文に目を通す...
初等・中等教育における日本の作文教育はどうなっているのだろうか?
作文教育の目的は何か?そのためにどのような指導を構想し,課題を準備するべきか,きちんと議論されているのだろうか?
作文教育は,日本語の作成・編集技術を磨く機会ではなく,単に学校で<いい子>のふりをさせる抑圧装置として働いているのではないだろうか?
児童・生徒を<いい子>にすることは,もちろんある程度は大事なことだと思う。しかし,もしもそのために児童・生徒から<考える>機会を奪っているとしたら大きな問題だと思う。
この日,わたしが目を通した作文は,「とりあえず,最後に大人の気に入りそうなこと[しかも,そう言うことは大抵私の同業者の神経を逆撫ですることも知らずに!]を言っておけばいいだろう」という魂胆が丸見えで,まったく自分で考えたり議論したりしようとする姿勢が丸見えのものばかりだった。
毎年こういうものを読まされると,やはり作文を書いた人の個性や考えかたではなく,若い人にこういった作文を無神経,無反省に反復させてしまうシステム=教育体制に問題があると思わざるを得ないのだ。
特に問題なのは中・高・大の<受験制度>だと思う。試験があること自体は悪いことだとは思わない。しかし,日本では受験シーズンになると,試験がめじろ押しの状態になる。多くの受験生が複数校を受験する,学校としては早く合否を合格者に通知し,受験手続きをしてもらう必要がある。だから,どうしても採点者が<手っ取り早く採点ができる問題>が重宝される。それはつまり,受験生にとっては<手軽に解ける問題>である。それは難易度の問題ではない,解答時間と採点にかかる時間が問題なのだ。
国語の場合だと,中学入試,高校入試で出題される問題は抜き出しや,記号問題が多くなる。
作文の問題でも,せいぜい100字とか,200字程度の問題しかだせないだろう。ここに問題がある気がする。作文問題の醍醐味は<自由>であるはずだが,100字,200字でどうやって<自由>が発揮できるのか?100字や200字だと,自分の意見は言えても,その意見の正当性を順序立てて論証することが極めて困難だろう。
例えば,受験者が採点者の予期していたことと違ったこと,社会通念とはそぐわないことを言おうとしても,100字や200字では,受験者は自分の意見を論証するには,スペース不足だ。すると,合格に点数が必要な受験者は,とりあえず大人に都合のいいことを言ってお茶を濁してしまうだろう。
その結果,普通の高校生は,作文=とりあえず大人を安心させることを言う問題,と認識していまう。だからいつまでも,文を遂行する必要や,段落の構成を考える必要性が分からない。
そして,上級学校(大学)の教員がその尻拭いをすることになる。
作文という課題を本当に自由な課題,思考力を鍛える課題,文章力を鍛える問題にするためには,<作文とは解答にも採点にも手間ひまがかかる>という事実をあきらめて受け入れることから始まる気がする。この点を無視して,若い人に文章力をつけてもらおうというのは,それこそ虫がよすぎるだろう。