哲学者が読む黙示録

ドゥルーズの「ニーチェと聖パウロ,ロレンスとパトモスのヨハネ」という書評論文を読む。
聖書に含まれている異教(多神教)的な要素が描き出されていてとても面白かった。お裾分けではないが,特に面白かった一節をご紹介すると...

[……]『黙示録』でもっとも興味深いことは,ねじ曲げられているとはいえ異教の素地がここには姿を見せ,活気を取り戻していることだ。『黙示録』が寄せ集めの集成された書物であるということはそれ自体はとくに驚くようなことではない。この時代にはそうでない書物の方がむしろ珍しいというべきだろう。しかし寄せ集めの書物にも二つの種類,というか二つの極みがあるとロレンスは言う。一方には,書き手が違い書かれた土地や伝統等々が違うさまざまな書物をとりまとめた,ひろきに及ぶ型の集成があるとすれば,他方の極には,馳走をつらぬいてそれにまたがり,必要とあらばそれらを混有して新しい地層の中に基底の地層を露呈させもする,集成が深きに及ぶ型の書物もまた存在する。地層のボーリング調査とも言うべき書物であった,それはもはや諸説混合.折衷の産物ではない。『黙示録』の最古層には異教の地層が横たわり,これがユダヤ教キリスト教の地層とともにこの書物の三つの大きな部分を画している。ここでは,ときとして異教の古い地層に沈んでいた沈殿物がキリスト教の地層に断層に滑り込み,キリスト教の空隙を埋めるといった現象が起こりうるのもそのためだ。(ロレンスはよく知られた『黙示録』第十二章をその例として分析してみせる。ここでは,日月星辰の太母と大いなる赤き竜にまつわる異教的な神の生誕神話が,キリスト降誕の説明の空隙を埋めているのである〔130-132頁〕)。聖書の中で異教の精神がこのように活気を取り戻しているのを見ることはあまりない。あの預言者たちも,福音書を書いた使徒たちも,パウロその人も,コスモスの星辰や天体について,異教的礼拝についてよく知っていたはずだが,彼らは極力こうした異教的地層の痕跡を消し,覆い隠す方針を取ったのである。だがこのユダヤ人たちが何としてもそこに立ちかえる必要を覚えた唯一の例外的ケース,それが「見る」ことを願う場合だった。見ることを渇望した時,〈幻視(ヴィジイオン)〉が〈言葉(パロール)〉の支配を離れて再び一定の自律性を回復したまさにその時,彼らはこの異教的地層に帰ってゆかざるをえなかったのである。

引用は,河出書房新社の邦訳のお世話になりました。

最近,聖書関連の資料に目を通すことが多いせいか,この書評論文はとても面白く読んだ。ドゥルーズが語るロレンスの作品もとても気になる。