乙女が読む『狭き門』

誰にだって何度読んでもわからないテクストというものがあると思う。私にとって『狭き門』はそんな作品の一つ。漱石の『三四郎』と同時代の作品と考えると何となく身近に感じられるのだが。でも,この作品の数年後にストラヴィンスキーの『春の祭典」が初演されると思うとやっぱりわからなくなる。
どうしてこの2作品を挙げたかというと,主人公ジェロームの腰抜けぶりが何となく三四郎を彷彿とさせるのと,ニームの郊外の朝を散歩する時にヒロインのアリサが感じた胸騒ぎというか,官能の目覚めを,彼女自身が綴った日記の一節が,『春の祭典』を想起させるからだ。
先日,青春時代にこの本(『三四郎』ではなくて『狭き門』)に感動した問いう何人かの方(主に女性ですが,男性もいらっしゃいました)から,当時の感想をうかがう機会があった。
皆さん『狭き門』に純愛物語を読み取って憧れを抱いておられたようだった。
さらに,皆さんのお話では,アリサに憧れた理由が,彼女たちの目にアリサという女性が結婚という制度と戦う女性,あるいは結婚という制度から自由な女性と映った,とのこと。
ついこの間,つまり昭和の時代までは,多くの独身女性の背中に,周りが「結婚しないと,女性の自立が極めて困難な日本みたいな国では女性は食っていけない」と脅されて(しかも,極めて説得力がある!),結婚がとても大きなプレッシャーとしてのしかかかっていたのです。
この話を聞いただけで,昭和にあれほど若い女性から『狭き門』が読まれた理由が少しわかったような気がしました。こうした読みがどれだけ正しいのかはわかりませんが,今まで読んできたどんな『狭き門』の解説よりも,私の胸に響いたのは確かだ。
貴重なお話,皆さんありがとうございました。

狭き門 (光文社古典新訳文庫)

狭き門 (光文社古典新訳文庫)