石川さゆりを聞きながら... 哀しい歌が聞きたい!

正月は,知人の車を借りて遠路はるばる,実家に。(孝行息子は大変なのよ!)。
知人のカーステレオには何故か石川さゆりのベストアルバムしかなくて... 結局何度も何度も聴く羽目に。
もともと彼女のことは嫌いではない... というか「天城越え」の大ファンなので,運転しながらとはいえ,かなりハマって聴き入ってしまった。
なんたって,演歌が歴史的な役割を終えた今,彼女が最後の演歌の大歌手であることは間違いないでしょう。
こういう移り変わりの烈しい時代に石川さゆり聴いてると,いろいろと考えさせられました。
まず演歌の世界にはどうもイメチェンという概念がないということ...
基本的にシングル・レコードで勝負の世界だから仕方ないのだろうけれど。
どれを聴いても同じ熱の入れ方,コブシの回し方に聞こえてしまう... 延々と同じ味付けのメイン・ディッシュを食べさせられているような感じ。
「ウィスキーはお好きでしょ♪〜」ではないけれど,たまにはサラダやオードブルも食べて=聴いてみたくなります。
ビートルズというか,ジョン・レノンの呪縛からどうしても逃れられるこができない佐野元春や,ローリング・ストーンズのおっかけを音楽でしているような甲斐よしひろのベストアルバムを聴いてもこんな感じは,おそらく味わえないと思います。
10年前,つまり美しさ(容姿の点で)の絶頂にあった石川さゆりに,もっと色んな音楽的冒険のできる環境を提供できなかったのはかえすがえすも残念。10年前というと... ちょうどバブルが弾けてこの国が大変だった(まあ,あれからず〜〜っと大変なのですが,この国は!)頃,レコード会社もリスクが取れなかったんでしょう。妙な所にバブルの影響って及ぶものですね。
しかもなんとご当地ソングの多いことか!そういえば美空ひばりのメジャー・デビューも「りんご追分」だったはず。演歌と地方的エートスは切っても切れないのでしょう。
高度成長を支えてきた団塊の世代の叔父さま≑おじいさまがめでたく年金+退職金満額貰って現役から身を引こうとなされようとする今,地方がずたずたに疲弊し,演歌が演芸の世界から消えようとしている。あまりに分かりやすい図式ですが,今の日本を象徴する図式であることに変わりはありません。

でも,なぜこの数日,石川さゆりの脂ぎったこってりした料理=音楽に食傷したかというとそうでない。
その理由はおそらく,彼女がひたすら<哀しさ>を歌っているからだと思う。欠落感といってもいい。今の自分には何かが欠けている,今時分が手にしているものはいつか失う,そんな感覚だ。
そして彼女の唄というか演歌にとってはそれこそが本質。「津軽海峡冬景色」しかり,「天城越え」しかり」,「暖流」しかり,「火の国」しかり。だから演歌は暗い,だから演歌は嫌い,とおっしゃる向きが多いのはよく分かっている。わたしもその気持ちはよくわかる。
でも,唄からこの<欠落感>を取ったらいったい何が残るのか。
能登半島」のように,欲望する若い女性を歌っても(彼女は「涙の連絡船」のヒロインのように男を待たない。男の所に飛んでいって自ら男を押し倒す女だ),他に<欠落感>つまり,この一瞬は二度と戻ってこないという感覚があるからこそ,石川さゆりは「能登半島」のヒロインに妙なリアリティを与えることができるのだと思う。
どんなに今幸せな人だって<昨日の幸せ>は返ってこない。どんな幸せだって,絶対に取り戻せないものの残骸のうえに成立つものじゃないかしら。
そして,その欠落感とか,それが生み出す<哀しさ>を歌詞にする人,音楽に乗せる人が今の日本の大衆演芸の世界では決定的に欠如している気がします。明るくて,前向きな歌が多すぎて... 今時の音楽のことはまったく無知なのだけれど,テレビをザッピングしたり,街を歩いていて,別れの歌や幸せだってあの頃を懐かしく愛しむ歌を耳にする機会は,昔より確実に少なくすっている気がします。
これが何を意味するのかはよく判らないけれど,日本社会の変化と何か深く繋がっている気がします。
とりあえず,人生に疲れて切っているオヤジの望みは... 演歌でもいい,演歌でなくてもいい<哀しい唄>が聴きたい。ほんの3分間,自分をがんじがらめにしている社会的なアイデンティティーをちょっとだけ深く,優しく揺さぶってくれる唄が聴きたい。