三船敏郎と山田五十鈴(途中)

黒澤明が大好きな若い友人と話しているうちに『蜘蛛巣城』(1957)を20年振りに見る。
おそらく,今日の映画界では『蜘蛛巣城』で使われた1ショットを使っただけで,世間の評判を呼ぶだろう。それだけ素晴らしいショットが鏤められた,今日では決して撮ることが出来ない映画だ。
脂の乗り切った三船敏郎の演技=動きと,絶対的な存在感を放つ山田五十鈴の静と動のダイナミスムには改めて驚かせる。
三船ほど表情が豊かで,馬を駆る姿が美しい俳優が日本に現れることはないだろう。山田ほどただ座って語るだけで,画面が緊張する,そんな存在感を持った女優は出てこないだろう。
三船敏郎に,主君殺しを唆し,決意させる場面では,鷲津朝芽=山田五十鈴が語る際に,朝芽は徹底して不動だ。しかも朝芽が話す時には,カメラはその言葉に動揺を見せるする鷲津武時=三船敏郎に向けられるので,彼女の姿はスクリーンでは見ることが出来ない。私たち観客は彼女の声を聞きながら,三船の動揺を目の当たりにする。結果として,その登場時間はかなり限定されているものの,朝芽の欲望,存在感が観客の記憶に刻み込まれる。朝芽はスクリーンから消去されることで,『蜘蛛巣城』も物語空間全体を支配する。見事な演出と言えよう。
さらに,この<声>の影響力は,この映画のもう一つの特徴である<沈黙>によって,さらに補強される。丁度映画の中盤で,武時が朝芽の<声>に打ち負かされて,君主都築国春を暗殺を決意し,実行するまでの7分間ものあいだ,山田,三船は一言も台詞を発しない。ただ,能を思わせる効果音が適所に流されるだけなのだ。この映画は恐らく<声>と<沈黙>によって作られた映画と言えるだろう。