失恋という名の成長譚:太宰治「パンドラの匣」

太宰治の短編小説「パンドラの匣」を読んだ。
主人公は二十歳のお坊ちゃん。結核を患い,「健康道場」というサナトリウムで療養生活を送っているうちに,終戦=敗戦を向かえる。
小説で描かれている「健康道場」の生活は,今日の価値観からすると耐えがたい。ほぼ外界から断絶している上,一日の生活が分刻みで定められている。もちろん病室は個室ではない。数人での共同生活である。
だから,戦時中,とりわけ戦争末期では<楽園>のような生活なのかもしれない。なぜなら,健康道場には空襲,軍事教練,労働奉仕,避難訓練も,プロパガンダだらけの新聞・ラジオもない。また,飢えや,食料を心配する必要もないようだ。これらの点からすると,同時代の読者からして「健康道場」は垂涎の的であったことだろう。恐らく,デメリットとメリットを天秤にかけると,メリットの方が遥かに大きい,皆の憧れの空間だったに違いない。
「健康道場」のメリットは戦時中の物質的不如意,暴力,強制的な労働を免れているだけではない。少なくとも男性にとっては極めて魅力的な空間だ。看護婦さんたちの存在である。
物質的な不安,暴力から守られている健康道場の患者たちは,日常生活のすべてにおいて,若い看護婦たちに面倒を見てもらっている。特にここでは,毎日,全身に布摩擦が施されるのだが,これも看護婦たちの仕事である。毎日,本来なら戦地に送られていてもおかしくないのに,若い女性に世話をしてもらう上に,摩擦までしてもらえる。これが男たち,特に若い男たちにとって楽園でなくてなんだろう。
しかし,楽園でいるが故に,ここにいる限り,若い男たちは,成長することも,進歩することもない。ここから出ることによって,自らパンドラの匣を空けて,様々な苦労を経ないと成長は見込めない。
その意味では,主人公ひばりが,憧れの看護婦竹さんの縁談を知ることによって,失恋を経験するのが,小説中ひばりが「健康道場」から外出する唯一の機会であることは意味深だ。
ひばりは,魅力的な年上の女性への憧れながらも,その気持を隠すために他の女性を好きになような振りをしたり,みずからの欲望を罪とみなす。ひばり君がこの欲望を自らの欲望として引き受けるには,健康道場を出て,本当の修行が必要なのだろう。