ヴィクトル・ユーゴ『ノートル=ダム・ド・パリ

知人宅でヴィクトル・ユーゴの『ノートル=ダム・ド・パリ』のお話をさせていただく。
周知のように,『ノートル=ダムのせむし男』として,児童向けにリラリトされたり,映画やディズニーのアニメに翻案されたりしている。知人宅でも,それらを通じてこの作品に触れたことがある方はやはり多かった。
恥ずかしながら,私はそれらのいわゆる二次製品には触れたことがない。
原作は,1482年のパリが舞台だ。といっても,シテ島とカルチエ・ラタンの一部,そして当時はグレーヴ広場と呼ばれた今日のパリ市庁舎前広場という歩いて小一時間あれば廻れるような,狭い界隈が舞台なのだけれど... そして1482年と言えば,ルイ11世の治世の末期(この王は翌年に没することになる),つまり中世からルネサンス,そして封建制から中央集権国家への移行期である。
こうした移行の時代に,作者自身の移行期を投影していたことは想像に難くない。この小説は1831年に初版が出版されたのだが,1830年の7月革命による立憲君主制の到来に,ユーゴーはきっと王政から共和制への移行を見ていたに違いないからだ。
だから,こうした大きな視点で作品全体を捉えると,この作品は,来るべき民衆の時代,より自由な時代の到来を展望しつつ,製作されたと考えることができる。事実,こうした展望は以下のような作者=話者の論述からもうかがえる...

印刷術の発明は歴史上の一大事件である。あらゆる革命の母となる革命である。これによって,人間の表現形式はすっかり変わってしまった。人間の思想はそれまでの表現形式をすてて新しい形式をとるようになったのだ。アダム以来知性を表していた象徴のへビが,その古い皮を完全に脱ぎ捨ててしまったのだ。
思想は印刷されることによって,かつてなかったほど不滅なものとなった。空気のような,つかみどころのない,こわすことのできないものになってしまった。思想は空気にとけ込んでしまったのだ。建築が人知を代表していた時代には,思想は山のような建築に表現されて,ある時代と,場所を力強く占領していた。だが,思想はいまや鳥の群れと化してかぜのまにまに四方に飛び散り,世界中のあらゆる場所をいっぺんに占めるようになった。
繰り返して申し上げるが,印刷という形で表現されるようになってからは,思想ははるかに滅びにくいものになった。誰がこれに異議をさしはさめよう!昔は堅い石で表されていた思想は,根強い生命力を持つものになったのだ。長持ちするものから,不滅の生命をもつものになったのだ。(V-2,「これがあれを滅ぼすだろう」)

インターネット時代の私たちは,この引用を読んで,一昨年のアラブの春の思い起こさないことは難しい。印刷術による革命を飛び越えて,ユーゴーフェイスブック革命,ツイッター革命を見通していたかのようだ。
とはいえ,物語としてのこの小説は暗いお話だ。
この小説に登場する男の登場人物(グランゴワール,フェビュス,フロロ)たちは,ヒロインのエスメラルダという16歳の娘は,に出会うや,彼女を欲望する。そして三人ともだれもが彼女を手っ取り早く手に入れようと,強姦まがいの行為に走る。唯一,彼女に愛情にふさわしい敬意をもって接するのはカジモドだ。しかし,そのあまりに醜い容姿のために,彼はエスメラルダから感謝や憐れみを引き出すことはできても,愛情を勝ち取ることはできない。
結末はもっと陰惨だ。小説の主人公ともいえるエスメラルダ,カジモド,フロロは愛故に死ぬ。そして生き残るのは人を愛する術を知らないグランゴワールとフェビュスだ。結末には死と凡庸さしかない。
だが,愛する術を知っている登場人物も読者の共感を物語の中で終始一貫して享受できるかというとそうでもない... カジモドはその醜さのせいで,そしてフロロはその愛情/憎しみの尋常ならぬ激しさゆえに,読者の感情移入を妨げる。そして,若さ,美しさ,自由,奔放,無邪気,純潔を象徴するエスメラルダにはフェビュスの軽薄さを見抜く知性が欠け,フロロを哀れとおもうには人劇的な深みというか,経験が欠けていて,犠牲者としての共感,同情を得ることができない。エスメラルダにとっては,年老いた人間,醜い人間は愛する権利がないのである。

「わたしは,このわたしはおまえを愛している。ああ!それは誰がなんと言おうが,真実のことなのだ!わたしの心を焼くこの火は少しも消えることはないのだ!ああ!娘よ,夜も昼もそうなのだ。夜となく昼となく,燃えつづけるのだ。それでも哀れとは思ってはくれないのか?夜も昼も思いつづけている恋なのだ。身をかきむしられるようだ――おお!わたしは苦しすぎるのだ。いとしいやつめ!――哀れと思ってくれてもよいではないか。このとおり,わたしはやさしく話しているのだ。お願いだから,わたしをもう恐ろしいなどとは思わないでくれないか。――つまり,男が女を好きになる,これは男が悪いのではない。――ああ!残念だ!〔…〕わたしがこうして立ったまま,われわれふたりの永遠の境におののき震えながら,おまえは恐らく別のことを考えているのだろうな!だが,あの士官のことだけは,何をおいても,わたしに話してくれるな!――ああ!おまえの前にひざまずきもしよう,ああ!もしおまえがいやと言うなら,足とは言わぬ,足下の地面にでも口づけしよう,ああ!子供みたいに泣きもしよう,愛するとひと言いうためなら,ことばではなく,心臓やはらわたまでも,この胸からえぐりとりもしよう。だが,何をやってもむだだろう,何をやっても!――だがしかし,おまえの魂のなかには,やさしい,そしてすべてを許す心だけしかないはずだ。おまえは,このうえなく美しいやさしさに輝いている,まったく気持ちのよい,善良な,慈悲深い,魅力のある女だ!だが,ああ!このわたしに対してだけは意地が悪いのだな!ああ!なんという因果なことだ!」
 彼は両手で顔を覆った,娘には彼の泣く声が聞こえた。彼が涙を見せたのは,これが初めてであった。〔…〕
「〔…〕学者のくせにわたしは学問をあざける。貴族のくせに自分の名を汚す。聖職者のくせにミサの祈祷文典を淫乱の枕にし,神の顔につばを吐きかけるのだ!これもすべてお前のためなのだぞ!妖婦め!おまえの地獄にふさわしくなりたいためなのだ!しかもおまえは,この呪われ者を嫌っている!ああ!わたしは,おまえに何もかも言って聞かせなければならぬことになるぞ!まだ,もっともっと恐ろしいことを,ああ!ずっとおそろしいことをだ!……」
〔…〕
「〔…〕おまえなんか,神父で,年寄りよ!醜いこと!あっちへ行ってちょうだい!」(XI-1,「小さな靴」)

ユーゴーの上手さというか,この小説が読み継がれてきた理由も,すべての登場人物に読者の共感・興味を引く部分と,同時に読者につよい反発を呼び起こす欠点を絶妙に配合した点にあるのだろう。