西部劇は脱構築から始まった?

なかなか面白い西部劇を2本見た。『拳銃無宿』(1947年,ジェイムズ=エドワード・グラント)と『荒野のガンマン』(1961年,サム・ペキンパー監督)だ。
『拳銃無宿』はジョン・ウェイン演ずる無法者のガンマンとクェーカー教徒である清純な娘とのラブストーリ。

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一方,『荒野のガンマン』は,誤って子供を射殺してしまったガンマンが,遺体をなんとか故郷に埋葬しようと荒野へ旅立つ母親を護送し,アパッチから守るというロードムーヴィーだ。
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腕利きのガンマンが撃ち合ったり,正義の味方のガンマンが,盗賊やインディアンを<痛快に>(!)撃ち殺していくのが西部劇の一般的な見せ場なのだろう。しかし,この2作品では,ジャンルからは通常は外すことのできないそうした見せ場が見事に消されている。
『拳銃無宿』は,ジョン・ウェイン演ずるイケメンのならず者が,彼を介抱してくれるクェーカー教徒のヒロインに感化される過程を描いた作品といえなくもない。その点,ドンパチがないことは,物語のロジックに従っている。だから不自然には見えない。しかも,ドンパチはない代わりに,ジョン・ウェインと彼の仲間が馬を巧みに操って,牛の群を奪う場面がある。これは西部劇ならではのシーンであることに違いない。
一方,『荒野のガンマン』になると,主人公のガンマンはかっこ良くさえないのだ!アパッチに頭の皮を削ぎ取られかけたという過去を持つという設定である。終始帽子で傷をかくしてはいるが,映画のラストはその生々しい傷が露になる。また,『拳銃無宿』とは違い,『荒野のガンマン』は颯爽と銃を操ることを自分の意志で回避しているわけではない。銃を使うシーンはたくさんあるのだが,古傷のせいでガンを撃っても撃っても,敵に当たらないのだ。映画の中では誰かが「これだけ撃ち合って,当たらないなんて!」と呟く始末!徹底して,西部劇ならではのかっこよさ,美学が排除されているのだ。
少なくともこの2本は,西部劇とは,私が想像していたよりもずっと,幅広い対応の物語を含むジャンルであることを教えてくれる。<西部>というか,アメリカならではの広大な自然を背景にした,映画におけるストーリーテリングのさまざまな実験の場,それこそが西部劇なのかもしれない。同時にこれらの映画は,演劇や,小説の後に来た映画は,そもそもその出発点において,物語を語る,見せるという行為にきわめて自省的であったことも示唆してくている気がする。
スクリーンの前で楽しいひと時を過ごさせていただきました。