グローバル,それともユニバーサル?これからの英語教育がはらむ危険

教育現場で英語以外の教科や科目を英語を通じて教えようという圧力がすさまじいらしい。
英語がもっと自由に使えれば,日本の企業は国際的な競争でより競争力を発揮でるかもしれない。一般の人は世界中の人ともっと気軽にコミュニケーションができるかもしれない。
でも,単純な事実を忘れてはいけない。人間はどうがんばっても1日24時間しかない。それは,何かをするということは,何かを諦めざるをえない,ということを意味する。だからこそ,若者はみんな自分探しとか,青い鳥探しとか,道の探求とかで悩む。フランス語を極めようとすることは,インドネシア語の達人になることを諦めることにほぼ等しい。経済学者としてどれほど優秀であろうと,彼(彼女)にツールドフランスでの優勝なんて期待しない。
英語以外の科目を英語で学ぶことの対価を考えるべきだ。英語はグロバールなコミュニケーション・ツールではある。確かに日本語は英語とまったくことなる,しかも徹底的にマイナーな言語である。しかも,前の戦争では人類史上に残るようなにひどい負け方をしたことも手伝って,英語を過度にありがたがる傾向がある。
そのせいで,英語よりも遥かに大事なコミュニケーション・ツールがあることを日本の人たちは忘れがちだ。それは,数学的思考であり,論理的思考だ。よく考えてみるべきだ。なぜ,超マイナーな言語を母語とし,これほど英語が苦手な日本人が,使用言語は英語しか認められていない理数系の分野あれほど大きな貢献ができているのかを?
それは,あらゆる学術分野において高度なレベルまで日本語で学べることができるシステムが,先人たちの想像を絶する知恵と勇気のおかげで,日本に整備されているからだ。
私たちは,英語やフランス語をといったいわば植民者の言語を学ばずとも,あらゆる学問の基礎,普遍的思考の土台を身につけることが出来る(ありがとうご先祖様!)。あらゆる学問分野で,英語学習とか,フランス語学習へのコストを掛けずに,初歩から極めて高度な知識を学ぶことが出来るのだ。
たとえば,医学を志す若者が,今の3倍も英語学習に労力をかけなければならない状態を想像してみよう。その場合,ほぼ確実に英語で発表される医学論文の数は増えるだろう。それに相関して,被引用数もかなり高くなるだろう。客観的に見れば日本の学術レベルや,大学のパフォーマンスは上がったことになる。お役人や,天下りの大学理事たちは鼻高々かもしれない。しかし,私たちが日頃接している,町医者のモラルや,学識,あるいはコミュニケーション能力は,医者が英語学習にかけた時間のおかげで,改善されるだろうか?恐らく無理だろう。また,例えば中学・高校で英語を通じて数学や生物・科学を教えた場合,理科・数学教育に今と同じクォリティーが維持できるだろうか?
英語のオーラル能力は若干は改善されても,中高生の理数科目のパフォーマンスは今より(恐らくは劇的に)下がる。つまり,レベルの低い高校生,大学生予備軍,すなわち今より程度の低い研究者,教師が将来圧倒的に増えるということだ。いや,全ての知識が英語を媒介としないと手に入らないため,今よりもずっと勉強嫌いが増えるだろう。これは,教育格差よりもはるかに深刻な問題だ。
普遍的な知識,考え方を,植民者が押し付ける欧米の言語を経由して学ばざるを得ないせいで,欧米諸国にいつまでも依存せざるをない国がたくさんあることを私たちは忘れてななまい。例えば,アフリカ諸国だ。
アフリカ諸国がいまだにかつての宗主国の依存状態から抜け出せなかったり,アフリカ人=知的劣等者というレッテルを貼られていることに,いかに苦しんでいるかを,私たちは想起すべきだ。どうして,日本の企業人,政治家,官僚たちは近隣諸国には反吐が出るほどのナショナリズムを煽りながら,同時に文化的・学術的には国民全体を植民地にも比する隷属的な地位に甘んじさせようとするのか?
全ての科目を英語で教えれば,確かに欧米との文化的,言語的な距離は若干は縮まるだろう。しかし,そのせいで若者たちは,普遍的なものから遮断されてしまう可能性があることを忘れてはならない。英語教育の過度の推進は,この島国に本当の鎖国状態を産み出しかねい。