パトリス・シェローの『フェードル』

大竹しのぶ主演で『フェードル』が上演されるれしい(もう公演は始まっているのだろうか?)。
この公演とはあまり関係ないのだが,2003年に今は亡きパトリス・シェローが演出し,ドミニク・ブラン嬢がフェードルを演じる芝居を見た。独仏共同テレビ局ARTEで放送されたものらしい。

なぜ男は女を怖れるのか―ラシーヌ『フェードル』の罪の検証

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フェードルを演じるブラン嬢の台詞回し,圧倒的な演技力に打ちのめされた。また,アリシーとテゼーを演じている役者も良かった。
フランス語が全く古びて聞こえない。例えば,サラベルナールが演じる『フェードル』は私の耳には,とても古臭く聴こえてしまう。演劇というよりは唄いのように聞こえてしまう。だが,シェローの手にかかると,フェードルも,イッポリットもアリシーも,みんな現代人として,つまり普遍的な存在として蘇る。
ギリシア悲劇〈3〉エウリピデス〈上〉 (ちくま文庫)

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また,イッポリットとアリシーの相同性と,アリシーとフェードルの対比を強調した演出も見事で,大変説得力がある。イッポリットもアリシーは互いに惹かれている。だが,に恋愛慣れしていないうえに,そして恋愛慣れしていないだけにやたらとプライドだけは高い。まあ,若さゆえに,とても面倒くさい存在である。そんな二人をの気持ちを人生の先輩である二人の召使というか相談役がうまく解きほどいてゆく。
二人の恋愛感情が面倒臭いとはいえ可愛い部類に入るとすると,フェードルが懐いている恋愛感情は,次元が使う。自分ではどうすることもできない,力に取り憑かれてしまって,それから逃れることができない。逃れる術があるとすれば,自ら命を絶つしかない。その力とは,義理の息子,イッポリットへの断ち切れない思いだ。この思いに食いつかれて,フェードルはのたうちまわる。恋愛を自分の置かれた状況改善に使おうとするアリシーとの対比は鮮明だ。注文をつけるとするとエノーヌだろうか。シェローの演出では,ひたすらフェードルを溺愛し,彼女のためならどんな犠牲も厭わない存在として設定されている。例えばもう少し悪魔的でも良かったのでは。例えばエノーヌをブラン嬢が演じて,もっと若い女優がフェードルを演じても面白いのでは... あるいはテゼーを耄碌した老人に設定したり... 西洋の演劇は,観客が自由に演出できるのが面白い!
セネカ悲劇集〈1〉 (西洋古典叢書)

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この芝居をどのように日本語に移し替えることができるのか,この狂気とも言える恋愛感情をどう大竹しのぶが演じているのか大変気になるところだ。