空前絶後

先週はなんとか時間を作って『ショアー』を見ました。
見終わったのが金曜の午後。
9時間におよぶ長編。コメントは差し控えます。
あの空前絶後の出来事に立ち向かったこの空前絶後の映画の前ではどんな言葉も虚しく響くだろうから...
ショアー』を見た後,いかなる言葉を紡ぎだすことも私には出来ないから(この映画に対峙しうる言葉を紡ぐ力があれば,もう少し世の中の役に立ってます!)。

でも語らずにはいられません。今日もランチの時に会話の授業を担当してくれているG氏と延々と話し込む。夜はいつも家まで送ってくれるHさんを捉まえてあれこれ話す... ただただ,この映画を語ることは出来ないと伝えるために...

監督ランズマンの言葉を引用します。
ちなみに,ランズマンのテクストは私がここ数ヶ月の間に読んだ文章の中で,もっとも美しく,倫理的で,強い文章です。
「理解しないことこそ,私が『ショア』を練り上げそれを実現する年月〔11年〕の間ずっと守ってきた情け容赦ない掟であった。私は,理解するということに対するこの拒否を支えにしてふんばってきた。それは,倫理的であると同時に実地に向いてもいる態度としては,およそ唯一可能なものであった。」(クロード・ランズマン「ここには,何故はない」/ 石田靖夫訳 in 『SHOAH』)
「フィクションとは一つの侵犯行為である。表象=上演にはある禁じられたものが存在すると,私は心底から思っている。『シンドラーのリスト』を見ながら,私はかつてテレビドラマ『ホロコースト』を見て感じたことを思い出した。侵犯すること,あるいは陳腐化すること,ここではそれは同じことなのだ。ハリウッド流のテレビドラマや映画は「陳腐化」し,それによってホロコーストのユニークな性格を廃棄してしまうから,侵犯行為を犯すのである。」(クロード・ランズマンホロコースト,不可能な表象」/高橋哲哉訳 in 『SHOAH』)

このようなが映画を作られ得たことには,ただ驚嘆するしかありません。
翻って,日本。
どうして広島,長崎について日本ではこのような映画が作られなかったのでしょう。この問いについて考えることは,日本の戦後,日米関係を見つめ直す上でとても大事なことなように思ます。