『機械としての王』

機械としての王 (みすずライブラリー)

機械としての王 (みすずライブラリー)

斜め読みというか,速読の練習+現実逃避のために読んだのですが... 大興奮のうちに読了。
日本語で読めるフランス17世紀の演劇研究書としては古典中の古典なのだそうです。
封建社会から資本主義社会(ブルジョワ社会)の移行期である絶対王政が確立する過程で,王(この場合はルイ14世)の身体が政治空間でどのような機能を果たすか,王の身体の機能の変遷+およびreprésentation(表象=上演)の移り変わりを,とても分かりやすく刺激的な文体で綴った書物です。
これだけ読みやすい日本語になっているというのは,訳者がそれだけ深く原文を理解していることでもあります。
ただ,この本が17世紀フランス文学を特に専門にしていない私のような人間にとっても刺激的なのは,中世から近代における権力のあり方,知の編制という,広いパースペクティヴから17世紀を捉えているからだと思う。
たとえばこんな一節である...

 「十七世紀のスペクタクルは人の目をくらませる機能を持っている.人を惹きつけると同時に隠蔽するのだ。なぜ惹きつけられるのかと言えば,そこには君主という太陽に由来する光を積極的に取り入れようとする力がはたらいているからである。君主はみずからのイメージをふたつの舞台(セーヌ)に投影する。一つはヴェルサイユに徐々につくられてゆく舞台であり,もうひとつは臣民の無意識という舞台である。国王はこれらふたつの舞台に「自我の集団的理想形態」として登場し,臣民は,個人としてではなく,象徴的身体の構成員として,それと同化する。全員が一体となった彼らは,集団して,国家(ナシオン)として,そして後には社会階級として,国王なのである。いかなる個人といえども,ひとりでは国王の場所を望むことはできないし,自分を国王とみなすこともできない。といのは,国王とは個人ではなく,ひとつの集団が具現化した形態だったからである。ナポレオンは,アンシアン・レジーム期に君主が占めていた想像的な場所を個人の資格において手に入れようとしたわけだが,結局それに失敗した。それにたいして,十九世紀のブルジョワジーは,この置換に見事に成功するだろう。というのは,彼らは社会階級として,つまりひとつの全体を形成する集団として,フランス人の集団的想像力のなかの王の場所を奪取したからである。」(195〜196頁)

さらにこんな一節...

犠牲に供された君主―ルイ十四世治下の演劇と政治 (テオリア叢書)

犠牲に供された君主―ルイ十四世治下の演劇と政治 (テオリア叢書)

「封建貴族は宮廷人に変貌する過程で,あらたな態度を身につける。上演されるスペクタクルに出演するものであろうと,端役であろうと,観客であろうと,みな同じである。彼の暴力性はもはや武器によってではなく,言葉を通して表現される。彼は外部からの攻撃から身を守ることを学ぶのではなく,自分の命を国王の監視下におきつつ,そしてまた国王を法として,すなわち懲罰を与える超自我であると同時に自我の集団的な理想像として内面化しつつ,みずからをコントロールする術を学ぶのである。ノベルト・エリアスがかつて明らかにしたように,フロイト的な超自我は,中世的なヒエラルキーに亀裂が生じたときに,大きく成長したのである。自分自身の力にゆだねられた個人,自由な個人は,攻撃的衝動や性的欲動にたいする家族と社会の側からの禁圧を内面化する。したがって,知性の意味はもはや騎士道小説の世界のように,人間の行為それ自体の中にあるのではなく,その行為を意識すること,すなわちその行為を準備し,それがもたらすさまざまな結果や影響について考えることのなかにあることになる。その意味で,あらゆる芸術,あらゆる文学は,十七世紀以降,人間の意識にかんする研究になったのである。芸術家たちにとって,人間の意識は認識の道具であると同時に観察を行う現場であった。十九世紀になると,フロイトマルクスが,意識を個人的な無意識(われわれの高度をつらぬく「エス」),あるいは社会的な無意識「われわれが実践を構造化するイデオロギー)によって二重化し,その領野を大きく拡大するだろう。彼らは,用いた概念は異なるけれども,意識の錯誤と意識を意識として現出させる条件を分析したのである。ふたりは意識の領野を拡大し,その働きを明らかにしたわけだが,それと同時に,意識をそれ本来の場に戻しもした。意識はそれまでは現実世界を認知するための,すべての人に共通した無特性な対象であったが,いまや社会的かつ個人的に作り出されるものに変容したのである。デカルト的な「私」はもはや世界の外部に存在するものではない。そうではなく,世界を構成する一部になったのである。この小規模なコペルニクス的転回は,十九世紀の美学と科学ーーそこでは,かつて観察者が身をおくことのできた唯一の観点が存在しないために,遠近法による構築はもはや不可能であるーーの基礎となるであろう。」(205~206頁)

長い引用となりましたが,いろんな人が色んな使い方,読み方のできる本だと思います。
一応,目次も紹介しておきます。

公衆の誕生、文学の出現―ルソー的経験と現代

公衆の誕生、文学の出現―ルソー的経験と現代

第一部 機械を操る王

第一章 王の身体
ふたつの身体
王の血
王の入市式
民衆と国家

第二章 文化の編制
十七世紀の知識人
コルベールが企図したこと
アカデミー運動
アカデミーへの運動
文化の変容

第三章
宮廷人
一六六二年の騎馬パレード
臣民―王,王―臣民
宮廷人
賭けとしての生からゲームという享楽へ
宮廷バレエ

第四章
神話的歴史
ローマ帝国的絶対権力
神話的歴史を語る文学
神話的歴史の舞台装置
神話からアレゴリー
神話的歴史と宗教
太陽の宮殿

第五章
魔法の島の悦楽
アルシーヌ島
快楽の両義性
豊穣のスペクタクル
商品と記号支持体
一六六八年七月一八日の祭典

第六章
フローラのバレエ
古代派と近代派
芸術と歴史の登場
愛とバッカスの祭典
国王という機械操作師

第二部機械としての王

第1章イメージの固定化
ヴェルサイユの新しい景観
国王の神格化
偉大なる世紀
歴史のための闘い

第二章 スペクタクルのはたらき
スペクタクルの諸形態
スペクタクルの諸機能
機械としての王

結論

原注   訳者あとがき   索引

ブリタニキュス ベレニス (岩波文庫)

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