美女とお金

ちょっとした必要に迫られて,今度は『マノン・レスコー』をフォリオ版で読み直してみる。感想を3点ほど。

*身分社会
名門貴族出のグリューが平民の娘マノンに寄せる熱烈な恋の物語は,同時に,貴族階級の徹底したご都合主義の物語でもある。貴族にとって平民は<もの>とさしてかわらない。また,いかにグリューの恋心が激しかろうと,それは貴族の多くの青年たちが経験する火遊びでしかない。
マノンが死んだ後のグリュの考えの保守性(=自分が手にしているものを護る)の徹底ぶりから,それが伺える

「けれども神はあれほど激しく私を罰したあとで,不幸と天罰を私にとって有用なものとするおつもりだったのです。神はその光で私を照らし,そのおかげで私は,自分の生まれと教育にふさわしい考えを取り戻しました。」

そもそも当時の貴族に取って,貴族以外の身分に属する人間はモノ同然のようだ...

自分〔=G.M.息子〕は彼女〔=マノン〕を熱愛している。父親が死んだら転がりこんでくるはずの遺産を勘定にいれなくてもすでに4万リーヴルの年金をもらっているから,これを彼女と共有したい。彼女は自分の心と財産の女主人となるだろう。こうした恩恵の保障として,馬車一台と,家具付きの邸宅を一軒,それに小間使い一人,下僕三人,料理人一人を提供してもいい。

*宗教の相対化=恋愛の絶対化
グリューが語る恋愛至上主義キリスト教への痛烈で,皮肉の利いた批判をつねに伴う。恐らく1世紀半あるいは2世紀前なら,異端として作者は火刑台の灰となっていてもおかしくないだろう。たとえば,グリューが親友ティベルジュに述べるこんな台詞からは,「一人の王,一つの法,一つの信仰」というフランス絶対王政の信条から,18世紀の社会はすでに深く乖離してしまったことが分かる。

〔…〕説教師たちよ,美徳がどうしても必要不可欠なものであると言うのはいいが,それが厳しく苦しいものであることは隠さないでいただきたい。恋の喜びはすぐに移ろうものだとか,禁じられているとか,永遠の苦痛をともなうものであるというのなら,それをちゃんと証明するがいい。そして,〔…〕恋の喜びが甘く魅惑的であればあるほど,そんなにも大きな犠牲に報いてくださる神はそれだけすばらしい存在であるというなら,それもちゃんと証明するがいい。だがぼくたちのような心を持っている以上,恋の喜びこそがこの世で最も完璧な至福であるということは,認めてもらいたいものだ

*貨幣社会の到来=経済小説のはしり
また,今更ながらの感想だが,この小説ではお金=黄金=orがなんと重要な役割を担っていることか!
ルノンクールとグリュ騎士との出会いから始まり,この小説における出会いはすべてが金がらみだ。マノンは周知のように愛するグリューのためなら何でもする女だ,老人に囲われることもいとわない(「私は愛する騎士を幸せにそして金持ちにするために働くの」),さらに金のためならグリューを棄てることさえできる。一方,こんな女に惚れ込んだグリューに何か起こるたびに,誰かと出会うたびに,お金の動きが発生する。しかも,グリューは些細なお金の動きさえ克明に語っている。金銭の勘定などせずに蕩尽するのが貴族であるはずなのにもかかわらず!それだけ,<貨幣>の占める役割が,世の中そして人々の意識の中で大きくなって来たのであろう。ロマン主義恋愛至上主義の嚆矢ともてはやされている『マノン・レスコー』が同時にまた,金の動きについてもっとも克明に綴った小説であることはなんとも興味深い。
その意味では,この小説の主要部分が金獅子亭(Lion d'or)で語られ,小説のラスト部分,アメリカに渡る船でグリューがマノンに以下のように語るのは何とも意味深に聞こえる。

「〔…〕君はすばらしい化学者じゃないか」と,私は彼女にキスしながら付け加えました。「何でも黄金に変えてしまうんだから」

この小説は冒頭からクライマックスまで黄金,それにたいする欲望で織り上げられた物語として読める点で,日本のサラリー・マンの皆さんが大好きな経済小説の嚆矢といえるかもしれない。