市川崑の魅力と限界...

『恋人』(1951年),『私は二歳」(1962年)という市川崑の楽しい映画を見た。

『私は二歳』は船越英二山本富士子が演じる若夫婦の間に生まれたターちゃんという赤ん坊が2歳になるまでを描いた映画。船越英二のサラリーマンパパぶりも見ていて楽しいし,山本富士子の色っぽいママさんぶりも悪くない。森永がスポンサーなので,至る所に森永製品,ロゴが出来てくるのも面白い。
だが,見ていて最も楽しいのはターちゃんの愛くるしい表情,仕草だろう。
赤ん坊なんて可愛いのが当たり前なのだから,誰がどう撮ったって可愛い,と言ってしまえばそれまでなのだけれど,大画面に映し出されるターちゃんの笑顔の素晴らしさには変わりない。
また,クーラーやテレビがなく,保育園・託児所もまだ整備されていない時代に,団地で夫婦二人(つまり普段は母ひとりで)子供を育てることが,どういうことなのかを窺い知ることができるのも,この映画の<現代的な>価値だろう。
もう一本は『恋人』(1951年)。結婚を明日に控えた京子25歳(久慈あさみ)は,独身最後の午後から晩を幼なじみの誠一(池辺良)と過ごす。
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1951年当時の観客は,田園調布の豪邸に暮らし,銀座の喫茶店,映画館,天婦羅屋,ダンスホールに遊ぶ二人をどのような<眼で>,どのような<思い>で見たのだろうか?
ここには<戦後>特有の貧しさのかけらもない,占領中なのに占領アメリカ軍人の影も,(ラストシーンの渋谷駅の駅内表示にわずかに窺えるだけだ)。もちろん生活のために外人にまとわりつく女性の姿も全く見えない。
ひたすら豊かでおしゃれで,外国へのコンプレックスや,敗戦の悲しみ・傷跡などまったく持っていない(ようにみえる)日本人で,この映画は溢れている。どこにも見つからない,夢のような(つまりは虚栄に満ちた)東京を,市川はルビッチや小津を彷彿とされるオシャレなカットを鏤めながら,そして『哀愁』を紋中紋にあしらったしゃれた手法描いている。公開当時にこの映画を見た人々の中には,このような<嘘だらけの日本>のイメージに反発する方も多かったのではないだろうか。よくも悪くも市川の特徴が際立った作品と言えるだろう。

一方で,両作品とも市川の限界をよく示している映画とも言える。
『私は二歳』では,映画の半ばからターちゃん一家を父方の実家に転居させることで,世代間の葛藤というテーマを導入しながら,このテーマを充分に展開することはない。早々に祖母は心臓マヒで死んでしまうからだ。
また,『恋人』でも,若い二人はついに互いに思いを伝えることができないまま。彼らに代わって,京子の父が自宅でパイプの煙草をくゆらせながら,二人の精神状態を描写する。
興味深いテーマがありながら,市川はそれを分析したり,展開させるリスクを取ることなく,オシャレで,モダンな映画にまとめてしまうことに留まっているのである。
おそらく,こういう点が,稀代の批評家たちが市川を評価しない理由なのだろう。

とはいえ,この2作品は見ていてとても楽しかった(たとえその大きな理由の一つが,懐かしの名優,古き日本をかいま見せてくれる,という点にあるにせよ)。