紅白歌合戦2010:日本はどこに行った?

何十年振りだろうか...
異例の寒さと積雪のせいで,どこにも行けないので,紅白歌合戦を最初から最後まで見てしまった。とはいえ... 極上のブルゴーニュの白をいただいたせいで,うたた寝して,何組かは見逃してしまったのだけれど...
昔と歌合戦の雰囲気が違うのにびっくりした。これでは<歌合戦>ですらないではないか,確かにセットも豪華だし,歌手は有名な人ばかりだし,一応男女が交互に歌ってはいたけれど,コンセプトという点から見れば,単なる歌番組だった。予算の大きな歌番組。歌しかない番組。
私が小さい頃の紅白の主役は<日本>だった。
歌番組とはいえ,たくさんのロケがあった。歌手出身地のロケが入った。ご当地ソングが沢山あって,それにちなんだロケが必ずあった,。それ以外にも,日本各地からの中継がこれでもか!というほど盛り込まれていた気がする。ところが今年見た紅白の中継地は横浜のコンサート会場とか都内のスタジオだ!これには驚いた。地理的に見て,昔の<紅白>は日本中にもっとオープンだった。
登場人物という点から見ても,昔の紅白はもっとオープンな構成だった気がする。沢山の素人さん=非業界人が応援や,バックでの楽器演奏,踊りなどを通じて参加していた。色んな人が会場に,特産品を持ってきたり,踊りにきたり,太鼓を叩きにきたりしていた。帰省したり,初詣のために神社・仏閣で行列する一般の人たちの映像もふんだんに盛り込まれていた

2010紅白ではこれまで紅白の売りだった<日本>の存在感が驚くほど希薄になっていた。こうした現象がいつから起こっているのかは,もちろん私には分からない。その理由は... 日本人の表象の中で<故郷>がリアリティーを失ってしまい,文字通り抽象的になってしまったせいなのかもしれない。
あるいは人々の価値観が多様化し,人々の生活レベルか階層化してしまったせいだろう。<日本>でイメージするものが,見る人々によって昔よりもずっと多様化,異質化しただけでなく,この事に人々が昔よりもずっと敏感になっているのだ。
紅白でお気楽に日本を語るにことができなくなるほど,<日本>のイメージはあまりに多層化,複雑化してしまっているのだろう。「さらば,1億総中流」と言ってしまえばそれだけの話しだが,全国の隅々に支局を持つNHKが総力を挙げて制作する紅白という巨大な仕掛けでさえ,<一億層中流=つまり日本人は社会的に同一>というフィクションが維持なく出来なくなった事実をこれだけはっきりと突きつけられると,私のような戦後民主主義の純粋培養物は,ちょっとだけ取り乱してしまうのである。

<日本という大きな物語>が消失しまえば,紅白に残るのは歌手たちが作り出す,相互に関連のない<小さな物語>だけである。それは時として廃墟のような寒々しさを見る者に感じさせる。今年の司会がとても不器用に見えたのは,個人の資質・準備不足のせいではなくて,おそらくは日本という大きな物語の消失のせいだろう。互いに関連のない小さな世界をつなぐことは,どんなに卓越した話術を持つ司会者にも至難の業だ。
今年の紅白では,多くの歌手が<紅白スペシャルヴァージョン>のようなものを歌っていた。それは一人一人の歌手に,<自分の世界>を表現してもらうための方策であり,恐らく制作者の頭の中では,ポジティヴな企画として認識されていることだろう。しかし!個々の歌手に個性を発揮させようとする演出は<日本>という物語の消失とは,コインの表裏の関係でしかない。大きな物語がつなぐ<絆>が出演者の間,出演者と視聴者の間にもはや想定できない以上,歌手は自分の世界に閉じこもるしか許されないのだから。

2010年の紅白歌合戦からは日本が消え,残ったのは,互いに関係のない虚しく寒々しい音楽だけだった...
さて,今年の紅白はどんな物語を映し出してくれるやら...