女の映画

先日,溝口健二の作品を何本か見た。これまでに何度か見た作品(『西鶴一代女』)もあれば,初めて見た作品もあった(『祇園の姉妹』『祇園囃子』)。溝口健二は徹底して女性の味方なのだとつくづく思った。いずれも,芸者や遊女(にならざるを得なかった女性)が主人公なので,女性たちは身を持ちくずしたり,男にだまされたり,不本意ながら身体を許したりするのだが,そうした境遇でも溝口の女たちは人間としての,女性としての誇り,意地を決して失わない。
そうした溝口健二の作品の中でも取り分け面白かったのが『元禄忠臣蔵 前編・後編』(1941~1942)だ。忠臣蔵といえば,その真相はともかく,主君の仇討ちのために全て(家,妻,恋人,友人,財産など)を犠牲にする男たちの物語として語られることとが多い。大石内蔵助はあるしゅ日本の男の理想像の一つだろう。
ところがどっこい!であった。溝口健二はこの男の物語を,その本筋を変えることなく,女の物語に換骨奪胎してしまう。
例えば,忠臣蔵といえば討ち入りだろうが,溝口は討ち入りを描かない。その時の模様は,女たちが読む手紙,手紙を読む女たちの表情,動揺,感涙から伝えられる。
また,武士の名誉を象徴する切腹忠臣蔵では重要なテーマである。赤穂浪士の話といえば,主君の切腹に始まり,家臣たちの切腹で終わる話と要約が出来るくらいだ。だが,映画の画面上で実際に切腹するのは唯一女性である。クライマックスで武士の名誉を象徴する行為を男にではなく,女にさせているところに,女の味方溝口の心意気を見た気がする。