男の無能さと女の威厳

 もう1月近く前になるだろうか(あまりに忙しすぎて,記憶が定かではありません),ミニ・シアターという日本語とも英語とも定かでないヘンチクリンな名前で呼ばれる,スクリーンがとてもチャチな,つまりはとてもしょぼい映画館で,久しぶりにフランス映画を見た。『一人が持ちこたえれば,他のものがついてゆく』という風変わりなタイトルの映画だった。日本語タイトルは『愛について,ある土曜日の面会室』。マルセイユを舞台とする3つの繋がりのない物語=人間関係が,クライマックスの「ある土曜日の面会室」に収斂していく物語。
 一つ目の物語は,息子を同棲相手の青年に殺されたアルジェリア人女性にまつわる物語だ。ゾラは息子の死の理由が知りたくて,単身マルセイユに渡り,犯人の姉の家庭に入り込み,犯人との面会許可書を取り付ける。
 二つ目の物語は,ティーン・エジャーのカップルの物語。シングルマザー(らしい)のもとで暮らしながら,サッカーに明け暮れる女子高校生ロールは,ある日,アレクサンドルに出会う。彼女はちょっと不良ながら,ホームレスの支援もする同世代の彼にひかれてゆく。二人が付き合い始めた矢先,アレクサンドルは公務執行妨害で刑務所に収監されてしまう。その間に,ロールは妊娠していることに気付く。しかし,刑務所の中でアレクサンドルは次第に粗野,乱暴になってゆく,当然彼女への心配りもできなくなる。まあ,彼もギリギリの生活なのだから仕方ないが,そんなアレクサンドルを受け入れる余裕はもちろん妊娠したばかりのロールにあるはずがない。彼女はアレクサンドルとの別れを本人に直接知らせることを決意する...
 三つ目の物語はステファンと,彼にそっくりで懲役25年の刑で服役中の<親友>を持つピエールの物語。ステファンに偶然出会ったピエールはステファンが服役中の友人と瓜二つであることに驚く。そして... 件の親友と刑務所の面会室ですり替わるように持ちかける。親友が安全な場所に身を落ち着けた頃合いを見計らって,自分はステファンという男で,服役中の男と別人物だと名のれば,後は私の弁護士が上手く処理するから,1年かそこら監獄で過ごせば,大金が転がり込んでくるぞ... 親とも,彼女ともうまく行かず,仕事ではドジばかり... 文字通りうだつの上がらないステファンは,逡巡したあげくピエールの提案を受け入れる...
 マルセイユの刑務所の面会室以外にはなんの接点もない3つの物語の糸が,同じ時間,場所に収斂していく様を,レア・フェネールは見事に描いている。
 だが,何かが足りない気がする,という印象も否めなかった。最近,ヨーロッパの<インテリ向け映画>を意図的に避けてきたせいかだろうか。この映画が観客のため,あるいは自分のために作った作品ではなく,厳しい審査員,口うるさい批評家による試験をパスするために,優等生が書き上げた答案という印象が拭えきれないのだ。
 とはいえ,この映画の男女の描かれ方はとても興味深い。女性にはまぶしいばかりの威厳がある一方で,男の存在感がとても希薄なのだ。時代の兆候なのか,監督が女性のせいなのか,理由は分からないけれど...
 家族の中で息子の死を正面か受け止め,喪に服するの母親ゾラだけだ。一方,その死を引き起こした犯人である青年を支えようとするのは彼の姉セリーヌだけだ。セリーヌの夫は彼女を支えようとさえしない。母のヒステリーと恋人の我がままに翻弄されつづける一方,仕事でも無責任にして無能なステファンは,その絶望的なダメ男ぶりによって,まるで現代フランスを象徴するイコンのようだ!
 さらに,ティーン・エージャーのロールの回りからは,<父なる審級>は周到かつ徹底的に排除されている。陰さえ感じられない。彼女の前に現れる医学生も,彼女の苦悩,決断の重大さを引き受ける度量も気概もない。ロールが別れたアレクサンドルの後釜に居座ろうとして,映画の中では男のいらやしら(低俗さ,下品さ)の象徴として描かれる。
 一方,息子の死,弟の殺人,妊娠(そして恐らく堕胎),恋人の逮捕といった,まさしく絶望的な事態に陥りながらも(くどいが彼女たちが絶望的な状況に陥ったのは,彼女たちの責任ではなく,彼女たちの回りの男のせいだ),女たちは取り乱すことなく,自分に出来る最善を尽くそうとする(ステファンの恋人と母親は,こうした男女間の安易な2項対立をカモフラージュする役割を担っている)。それで,彼女たちが救われるわけではないのだけれど,にもかかわらず,彼女たちは過去に背を向けないし,過去を言い訳にせず,未来に立ち向かう勇気を持ち続ける。救いがない状況でも希望を失わない,それが威厳でなくて何だろう。
 長らく,ミゾジニー(女性軽視)がフランス社会を特徴づけてきたけれど,それも今は昔,時代は変わった!ということなのだろうか...