女子大生との恋:ウッディ・アレン『教授のおかしな妄想殺人』

出張先に向かう飛行機でウッディ・アレンの『教授のおかしな妄想殺人』(2015)を見た。
あらすじを確認しておくと,アメリカ東岸のニューポートにある小さな大学に,40歳くらいのお腹のではじめた,少々アル中気味の哲学教授が赴任してくる。半ば生きる意味を失った彼だが,ある日喫茶店で隣の客の会話を聞いて,人生の意味を再び見出す。その会話に出てくる判事は,社会に害悪でしかないと確信した彼は,その判事の殺害を計画する。殺害は成功し,彼は生きる喜びを再発見する。ところが彼と愛人関係にあった同僚の証言をもとに,彼と付き合っている子大生は,殺人犯が自分の愛人であることを突き止めてしまう...
自身の存在の意味を見いだせない哲学教授をラヴ・コメディーの主人公に設定して,1時間30分の間退屈させない,アレンの「芸」は相変わらず冴え渡っている。こうした軽妙さをどう捉えるかでアレンへの評価が分かれるところなのだろうが,この映画に関してはシステムは大変うまく機能している気がした。
また,日本とアメリカの大学の違いを考える上でも興味深い点があった。
そもそも大学を舞台にして,ここまで軽快なコメディーができてしまうことが,日本とアメリカの地域社会の中で,大学が担っているになっている役割が違うことを示唆する。進学率も含めて,アメリカのローカル大学の方が,社会により溶け込んでいるのではないだろうか?
また,教員同士の距離も近い。私生活も互いによく知っているというのはキャンパスで半ば共同生活を送っていることから説明できるだろう(そもそも僧院で文字どおり寝食を共にしていたのだから,大学の教員が互いのことをよく知っているのは歴史的には納得が行くところだ)。
特に興味深いのは,新たに赴任する教員の論文の内容を同僚たちがよく知っている点だ。日本だと「あの人はスピノザの専門家」「あの人はプルーストで博士号を取った」というとはなんとなく知っていも,同僚の論文を読む人までは少ないのでは...
また学生も教員のことをよく知っている。日本だと教員の専門を知っている学生が何人いることか... やはりアメリカでは学生と教員の距離が近いのだろう。映画では学部生と主人公が恋愛関係に落ちるが,これも互いの同意に基づいた関係であった。正確には,女子大生が何度も積極的にアタックして,最後に教授が折れたとという感じだった。日本で言われているセクハラとは程遠い。
学生と教員の距離がこのように近いのにも幾つかの理由がある。まず,講義あたりの受講生の数が少ない。特にこの映画のような州立大学ではその傾向が顕著なようだ。だから講義中に教員と学生の対話が可能だし,頻繁にレポートのような課題を出して,教員がきちんと添削することができる。また,クォーター制なので,1週間に同じ科目の講義が複数回行われる。文科省が必死に導入しようとしているアクティヴ・ラーニングには,やはりそれを可能にする物理的な条件が不可欠なことを,日本社会はもう少し自覚するべきだろう。
また,教員が分かりやすい授業をし,分かりやすい論文を書いていることも,教員と学生の距離を近くする事に大きな役割を果たしていることも忘れてはなるまい。
もてたいなら,まず仕事のできる人間になれということなのだろうか...