『悲しみよこんにちは』の午後

20数年ぶりにフランソワーズ・サガン『悲しみこんにちは』を読み直す。
短いが官能的な暗示と細やかな心理描写がバランスよく散りばめらられた,大変によくできた短編小説だと思った。主人公セシルの父レイモンの婚約者となるアンヌは,セシルの母の友達で,徐々に母としての役割までも努めようとする。ただし,セシルに対しアンヌは母としての,いわば自然から与えらえた権利と義務を持っていない。それゆえ,アンヌが母としての役割をセシルに正当化するために,行使されることが許されているのは理性的な判断だけなのだ。そして合理的にセシルと接しようとするあまり,その結果,セシルに非常に厳しく接することになる。アンヌの目には,セシルが海で出会った青年シリルとの関係が,行きすぎたものと映る。そこでアンヌはシリルに向かってセシルに会うことを禁じる。勉強しないセシルに対し,もっと将来のことを考えなさいと諭し,挙句の果てには午後には外出禁止令を出して,勉強に専念させる。
一方,セシルはそんなアンヌに憧れを抱き,受け入れようと努力する一方で,どうしても叶わずに,結局激しく反発してしまう。特に,これまで娘として,共犯者として独占してきた父を,アンヌに取られることが我慢できずに,父の前の恋人エルザとシリルを操って,アンヌを自分の生活世界から排除しようと画策し,見事それに成功するのだが...
父殺しならず,母殺しが主要テーマだけに,年頃の子供が抱く母への感情が丁寧に描かれていて大変面白かった。
悲しみよこんにちは』では,実母は主人公が2歳の時に亡くなり,17歳の時にアンヌがその後釜を務めるという設定になっている。また,レイモンもアンヌもいわゆる中流ブルジョワで,別荘には女中がいる設定なので,アンヌもはいわゆる生活/家事から解放されている。そのため,逆に母という役割というか,ポジションを占める女性に娘が反発する理由が分かりやすく図式化されている。
母に抱く反発は2つに絞られる。1つは,母の経験に対して。母は娘がまだ見たことにない,経験したことのない世界を知っている。母の持っている世界の大きさに,娘はどうしても追いつけない。母が持っている自由に対して。娘は,交際相手や交際の度合いまで母親に管理される,娘は1日の時間管理を母親に決められる,一方,母は仕事をしたい時に仕事をし,好きな時に父親と性的な関係を持つことができる。
ちなみに私は男だ。『悲しみよこんにちは』を読みながら感じたのは,男であることのハンディだった。男であるために女性なら簡単に感じられたり,分かることが自分には閉ざされているのではないのか?そんな恐れと絶望感を感じながらこの本を読んだ(昔読んだ時にはこのような距離感は感じなかったのだが...)。例えば,昔ユルスナール,デュラスあるいは,大好きな小川洋子などを読むときに,このような男としてのハンディを感じさせられたことはなかった。そう意味で大変貴重な読書体験だった。また,逆に女性はいわゆる男性作家をどのように読んでいるのか大変気になった。

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