『トニー・エルドマン』

夏休みの出張中に知人のオススメもあって,マーレン・アーデ監督『トニー・エルドマン』(2016)という大変面白い映画を見た。
これは『東京物語』の現代版のような話だった。

ドイツのとある中学で美術を教える60歳過ぎの男が,娘の働くブカレストにある日突然やってくる。娘はコンサルタント会社のようなところで働いていて,ブカレストの一般的な生活水準からすれば,物質的にはすこぶるハイソな環境で暮らしている。
とはいえ,娘はある石油採掘企業の業務の一部をアウトソーイングするプロジェクトに没頭している。企業の大胆な合理化を行い,生産性を上げるためだ。このプロジェクトは彼女のキャリアにとっては極めて重要な案件で,とても父親を歓待する余裕などない。
いかに短期滞在とはいえ,自分が娘の生活に重荷になっていることをさとった父親は自らブカレストを離れた... はずだったのだが!なんと父親はトニー・エルドマンという偽名を使って再び娘の前に現れる...
親の来訪が子供の生活にとっては負担なので,なんとか親を厄介払いする... までは,まさしく『東京物語』だ。しかし,2016年のヨーロッパは1953年の東京ではない。社会で働く世代は1953年よりもずっとストレスフルな生活を送っている。物質的・金銭的には豊かなのは確かだが,精神的にはずっと追い込まれた生活をしている。そのストレスが生活にどのような影響を与えるかを,監督は娘のまさしくボーダーライン上の生活を描くことで巧みに,しかも大変ユーモラスに示している。
結局,トニー・エルドマンとして戻って来た父の奇想天外は言動の中に,娘は大きな慰め,励ましを見出す。娘が黒い毛で覆われた巨大なぬいぐるみに入った父親を「パパ!」と呼びかけながら全力で抱き締めるシーンは本当に感動的だ。
たとえ,この場面は,あらゆる障害を乗り越え,そしてあらゆる手段を尽くして娘を励まそうとする父親の文字通り巨大な愛情を表現していると同時に,たとえシンプルな慰め,励まし,信頼の身振り・言葉さえも,娘は父親以外の人間から得ることのできない,という現代世界の残酷さをネガとして示しているせよ。
現代特有の大変深刻なテーマであるにもかかわらず,上映中は笑いが絶えないという,離れわざを成し遂げた映画に敬意を表したい。日本公開の折には是非ご覧くださいませ!
スタンフォードのストレスを力に変える教科書

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