『君の名は』あるいはいかに喪に服さないか...

ようやく『君の名は』を見た。周りの日本人も,中国人も,台湾人も見てよかったと言っていた 訳がわかる気がした。
日本の都会=東京と田舎=地方のいいところがうまく描かれていた。それを繊細な絵が引き立てていた。
もちろん美化し過ぎだけれど。田舎はあんなに綺麗じゃない,そもそもパチンコやサラ金やラブホテルのない田舎が今の日本にあるのだろうか?都会も中心をうまく切り取っているけれど,私の知っている都会はもっと殺伐として,汚くて,貧しさがすぐそばにある。

ただ気になったのは... 彗星が落ちて,少数で済んだとはいえ,犠牲者は全くいなかったのだろうか?故郷を失った人はどうなったのだろうか?三葉は故郷を失ったこと,思い出がたくさんの場所がなくなったことをどう生きたのだろうか,今生きているのだろうか?単に東京に出てこられたことが嬉しいのだろうか。糸森のみんながみんな東京で楽しく暮らしているわけではないと思うのだが。
彗星落下による喪失を三葉はどう乗り越えたのだろうか,乗り越えなかったのだろうか?彗星落下というカタストロフを乗り越える力を与えるほど,愛は運命は力強いということなのだろうか?それともカタスロフは,運命性を強調するだけの意匠に過ぎないのだろうか?
出会いの運命性を強調したいあまり,老人,故郷,死者... 失われたものにあまりに背を向けすぎではないだろうか?戦争も,戦争を口実にこの国の人たちが振るった暴力も,震災も,震災で起きた原発事故も,そもそも原発の管理のずさんさも,この国の人たちは必死であたかも無かったかのように暮らそうとしている。記憶の改ざんとか歴史の修正という言葉では到底表現できない,危うさがそこにはある。だからこそこの映画のこの点が気になって気になって仕方がない。そしてこの映画が受けたことが不安でならない。
君の名は。(通常盤)

君の名は。(通常盤)