地位と機会


フランソワ・デュベ著『地位と機会:社会正義再考』を読む。
著者のデュベは,現場での丁寧な聞き取り調査と幅広い読書に基づいた理論的考察を駆使して,近年,教育にかんする研究を多数発表してきた。今回の新作はサルコジ政権下のフランスにおけるリベラリスムの台頭への,警鐘を鳴らしている。
近年,フランスでは地位の平等よりも機会の均等を重視する傾向にある。なぜなら,サルコジとと彼のブレインの巧みなレトリックによって,地位の平等はフランス社会における既得権益保護の同義語として,しばしば批判に晒されているからだ。彼らの論理に従えば,地位の均等が,社会党政権とシラク元大統領下の閉塞感や社会の硬直化をイメージさせ,機会の均等は個人のがんばりを認める社会,起業精神などをイメージさせる。
こうした風潮に敢えてデュベは疑問を投げかける。格差が広がるアメリカやフランスを例に挙げながら,機会均等の基礎こそが地位の平等であると彼は主張する。つまり,庶民の子(たとえば,私のような散髪屋の息子)が医者や大企業の重役になることを目標にできる社会が機会均等社会であるとするなら,こうしたことが可能になるには,まず子供への親の生活レベルの影響が小さいことが前提になる。すなわちそれは,庶民とエリートとの所得格差,生活格差が小さいことに他ならない。
また,社会の上と下の階層間での生活レベルの差が小さければ小さいほど,人は失敗を怖れずにチャレンジできる。そもそも,機会の均等は社会の構成員をたがいに競争相手に仕立て上げるが,地位の平等により人々は互いを社会の成立に必要な構成員と見なすことができる。連帯が強まるのだ。それに,機会の平等は,厳しい競争を勝ち抜いたごく僅かの幸運な勝者(勝負に運は付き物だ)にしか関係しないが,地位の平等は社会全体の成員にポジティヴな影響を与えうる。そもそも不平等はまず,一つの社会悪である。こうした理由から,適当に豊かになった社会は,機会の平等をよりも,地位の平等を目指す方が得る所が大きい。これが,私なりにかなり乱暴にまとめた,本書の骨子だ。
機会の平等に対し,理論的に地位の平等を訴える論は,日本では余り目にしないだけに,たとえ論旨の展開はざっかん大雑把とはいえ,デュベの主張は貴重な発見だった。